ゆかりの人々

作り出した人、愛した人
それぞれの思いがここに

ゆかりの人々

皇室とホテル

志摩観光ホテルが初めて天皇陛下をお迎えさせていただいたのは、昭和26年(1951)11月。戦後、国内事情を視察されるために各県を御巡幸されていました。ご滞在の折、ホテル庭園をご散策された陛下は、賢島の高台より英虞湾を望む景色をとくに賞され、翌年の正月に次のような御製を発表されました。
「色づきし さるとりいばら そよごの実 目にうつくしき この賢島」。
御製は暖地植物の「さるとりいばら」や「そよご」が見られるホテルの庭園に建立されています。
ご宿泊の栄誉は、昭和天皇においては5回、上皇陛下におかれましては、皇太子時代を含め計5回、在位中最後の地方訪問のご宿泊も賜りました。今上陛下におかれましては、皇太子時代に1回のご宿泊を賜っております。

建築家 村野藤吾(1891〜1984)

建築家 村野藤吾(1891〜1984)

まだ終戦の混乱が続く頃、大阪を中心に活躍していた建築家・村野藤吾氏のもとに、近鉄の建築課長から突然の依頼が舞い込みました。村野氏自身が手掛けた鈴鹿の海軍航空隊の集会所の建物を利用して、志摩半島にホテルを建てるから手伝ってほしいというもの。将校クラブの建物は、終戦前の物資が困難を極めた頃、三重県出身の実業家、そして陶芸家でもある川喜田半泥子翁より寄付された松材で梁や柱が作られた思い出の作品。再び姿を変えて新しい役割を果たすことは、氏にとって大変喜ばしいことでした。「現地を見学しての帰り、宇治山田の旅館で遅くまで川口社長(当時)の相談にお答えした寒い夜の日のことをよく覚えている」と、後日述懐されています。93歳を超えても創作意欲は衰えず、死の直前まで鉛筆を片手に設計に従事された村野藤吾氏。志摩観光ホテルは、昭和の建築史の礎を築いた巨匠60歳の時の作品です。

小説家 山崎豊子(1924〜2013)

小説家 山崎豊子(1924〜2013)

「陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる。」
山崎豊子氏の小説『華麗なる一族』は、この絵画のように美しい一文から始まります。当ホテル社内誌「浜木綿」創立30周年記念号にいただいた寄稿文には、「…何時間も、何日も、沈み行く夕陽を眺めた。そのあまりに壮麗な自然の光景を文字にする術もなく、書いては消し、消しては書いて、何日目かに書き上げたのが、冒頭の数行である。」と記されています。他にも処女作『暖簾』をはじめ、『花のれん』『女の勲章』『不毛地帯』という長編小説の書き出しも当ホテルの一室で執筆されました。昭和30年(1955)から平成19年(2007)まで当ホテルをご愛用くださった山崎先生。海外にいらっしゃる時以外は、必ず新年の三が日を過ごされ、英虞湾の美しい風景と伊勢志摩の美味を堪能されました。「志摩観光ホテルは、そこに働く人たちの心がすばらしい」「私の作品のふるさとというべき存在」というたいへん名誉なお言葉もいただき、今でもホテルには山崎先生がお使いになったデスクと椅子を展示しています。

実業家・陶芸家 川喜田半泥子(1878〜1963)

実業家・陶芸家 川喜田半泥子(1878〜1963)

三重県の豪商の家に生まれ、百五銀行第六代頭取の他、数々の企業の要職をこなした実業家。
半泥子という名は号であり、本名は川喜田久太夫政令。
書画、茶の湯、俳句など多彩な芸術的才能を発揮した人物で、日本を代表する陶芸家として「東の魯山人・西の半泥子」と称されています。翁とホテルの繋がりは、ホテル誕生と深く関係しています。開業当時の志摩観光ホテルには、翁の山から寄付された木材が使用されており「ザ クラブ」は当時の梁や柱が今も残っています。その一角にある茶室は、三重の杉や松、桜の木で造られ美しい佇まいを見せています。命名は翁によるもので「賢島」を逆手にとり「愚庵」(ぐあん)とするなど機智に富んでおり、揮毫された木彫りの扁額が、茶室上がり口に残されています。